わがまま科学者日記

純粋に科学のお話をしたい。。

私の留学記(1)セントルイスに降り立って

米国に来て長く経つ。そこで、私の米国での研究生活を振り返るのも悪くなかろう、ということで初心に帰るつもりでそんな文章を書いてみようと思う。多分、50回くらいのシリーズになりそうだ。
 
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1991年8月、ソ連8月クーデターが起こった直後、セントルイスのランバート空港に到着した。数年前に、テキサスのダラス・フォートワースからボストンに行く途中、飛行機の上から、ゲートウエイアーチを見たが、この地で暮らすことになったのだった。空港には、ボス自ら迎えにきてくれた。
 
セントルイスというと、どんなイメージがあっただろうか。当時は、まだインターネットなんていうものもなかった。街の様子を知るものは、「地球の歩き方」くらいだった時代だ。
 
ただ、私の大学院の時の恩師(鈴木旺教授)が、若い頃、セントルイスに留学し、その話を聞いていた。その30年以上も前の話であった。セントルイスで研究することになるワシントン大学(Washington University)は、メディカルスクールが特に有名で、多数のノーベル賞受賞者を輩出している。しかもCori夫妻に始まる生化学分野では、多数のノーベル賞受賞者を育てた。鈴木先生が留学した時代は、その黄金期であった。鈴木先生の留学したのは、後にハーバード大学に移ることになるJack Strominger氏の研究室だった。鈴木先生は、Cori夫妻のラボの上で研究をしていて、水をこぼして、Cori夫妻の部屋の掃除をしたという話をしていた。ワシントン大学に最初に来た日本人は、早石修先生(後に京都大学医化学の教授として、日本の生化学の発展に大きな貢献をすることになる)で、名古屋大学から来た鈴木先生がいたラボには、同じ名大から若かりし岡崎令治と恒子夫妻が渡米してきていた。こういう時代の話である。
 
セントルイスは、中西部の都市であるが、20世紀の初頭には、万博やオリンピックが開かれるなど、米国でも最も豊かな都市の一つであったようだ。おそらく1960年ごろは、そんな雰囲気があったのだろう。しかし、私が来た1991年当時は、セントルイスの中心部というのはかなり荒廃が激しく、全米でも最も治安が悪い都市として悪名が高かった。まず、現地に来て聞いたのは、この道より北には行かない方がよいとか、そういう治安の情報であった。
 
幸いメディカル・スクールの近くにアパートを見つけることができた。世界大恐慌始まりの年である1929年にできた建物だというが、おそらく当時は高級アパートだったのだろう。あちこちに残る装飾に、その雰囲気が感じられた。ただし、ラボに行くには、やや治安の怪しい道を歩いていく必要があり、結局、歩いて通うことができるのに、そこを車で通うという奇妙な生活をすることになった。繰り返すが、1991年当時は、電子メールもなかったし、インターネットもなかった。日本の情報も全く得ることができなかった。夜になると、短波ラジオでNHKの国際放送をかろうじて聞くことができた。その放送は、南米向けでもあったので、懐メロのような音楽が多く、それが更に郷愁を誘った。

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