わがまま科学者日記

純粋に科学のお話をしたい。。

私の留学記(11)人の一生は重き荷を負うて

人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し 急ぐべからず 

不自由を常と思えば不足なし 

心に望みおこらば困窮し足る時を思い出すべし 

堪忍は無事長久の基 怒りを敵と思え 

勝つことばかり知りて負くるを知らざれば害 

その身に至る己を責めて人を責むるな及ばざるは 過ぎたるに 勝れり「東照宮遺訓(伝)」

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日本では、数年間の研究留学の後、日本国内でポストを得て帰国することが多い。大抵の場合、日本にいる恩師などとの何らかのツテがあるから可能なのだと思う。さもないと、計画的に研究やキャリア上の「決定」が行いにくいからである。将来がわからないという状態では、研究も「片付けモード」に入るのがよいのか、あるいは「探索モード」を続けるのがよいのか、決めにくいのである。近頃は、研究者のポスト確保が厳しいので、こういうプランが非常に立てにくくなっているということは深刻な問題だと思う。既に偉くなった先生の場合は、研究の「片付けモード」とか、「探索モード」という状態が全く気にならないと思う(そして、そういう感覚が若手に大きな負担を強いる)。しかし、若い研究者という個人にとっては、こういうのは大きな問題なのだ。

 

さて、私の留学記(10)で記したように、私は1994年、ちょうど3年間の研究留学を終え、日本に帰国して、岡崎の基礎生物学研究所の助手になった。当時の感覚で言えば、サクセスストーリーである。予定が決まっていたので、片付けモードに入ることができ助かった。

 

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さて、岡崎は、徳川家康の生まれたところである。私は、なぜか、家康と縁が深い。私が通っていた中学校(天竜川の東側)は、三河から遠江に入ったばかりの家康が拠点とするべく築城を試みたところだという。しかし、家康は、天竜川の西側、現在の浜松に拠点を築き、17年間過ごした。井戸を掘っても水がでなかったからとか、武田信玄への対策だとされている(昨年の大河ドラマ「おんな城主直虎」の時代)。戦国武将の中では、戦国の覇者タヌキじじい家康の評判はあまり芳しくない。しかし、戦国時代を終了させ、堅固な統治システムを確立し、豊臣家まで滅ぼして、250年以上の平和をもたらした貢献は評価されるべきであり、欧米の歴史書ではおしなべて「世界史」上の重要人物として扱われている。これは、家康やその取り巻きが日本の社会について深く考察していたからできたことであろうと思う。家康の場合、鎌倉時代の歴史書である「吾妻鏡」を読み、中国や朝鮮の体制を詳細に調査することで、あるべき社会を考えたと言われる。歴史や他国を知ることは、今と昔、こことあちらを「対照」するということでもある。

 

留学は、日本でないシステムをじっくり観察することで、日本の社会について別の部分を見ることができるようになるよい機会である。つまり、何かを考えるには、それとは違うものを知ることで、「対照(比較するもの)」を作ることが大切だと私は思う。

 

近年、海外に出たがらない日本の研究者が増えているのだという。語学の勉強の必要がないというのも理由のようだが、視野を広げ、この「対照」を作るために、じっくりと日本でないものを観察することは、語学以上に意義があるはずである。

 

 家康の纏「厭離穢土欣求浄土」。これから、私の「穢土」の体験、そして「浄土」を求める旅が始まるのである。たぶん、1ヶ月に1度くらいの不定期ペースで書きます。