わがまま科学者日記

純粋に科学のお話をしたい。。

私の留学記(17)ラボのスタイル:江上不二夫と沼正作

このブログを読むだろう若い人の多くは、往年の生化学者であった江上不二夫(1910-1982)と沼正作(1929-1992)を直接はご存じないと思います。昭和の2人の生化学者です。前半は江上不二夫博士について、後半は沼正作博士について少し書いてみたいと思います。

 

(1)江上不二夫先生 

人が面白いということや、今面白いことはやるな、自分で考えたテーマを面白くせよ。(江上不二夫)


実験が失敗したら大喜びしなさい。(江上不二夫)


牛馬的研究、銅鉄的研究も悪くない。(江上不二夫)

 

江上博士は、東京大学理学部教授、日本学術会議会長だったことからも、日本の学者の頂点にいた人ということが容易に想像できるでしょう。

 

20世紀のわが同時代人 江上不二夫 三浦義彰(昔、千葉大学医学部のサーバにあったが今はArchiveに残るのみとなった)
https://web.archive.org/web/20060220172924/http://www.m.chiba-u.ac.jp/med-jounal/75/75-3/miura7.html

 

1933年 東京帝国大学理学部化学科卒業
フランス政府給費留学生としてストラスブール大学およびパリ大学に留学。

東京帝国大学理学部助手
1942年 名古屋帝国大学理学部化学科第三講座(有機化学)助教授 
 同年8月 東京大学理学博士「スルファターゼ模型に関する研究」
1943年 名古屋帝国大学理学部教授
1958年 東京大学理学部教授
1968年 埼玉大学理工学部教授併任
1971年 三菱化成生命科学研究所初代所長
1980年 同名誉所長

 

 

この略歴を見ると、留学後、助教授になって、理学博士となるとすぐ教授。戦争の時代です。当時はラボごと長野県に疎開していたそうです。

 

江上先生の研究で最も有名なのはおそらくリボヌクレアーゼT1の研究でしょう。RNAのGのところで切断する酵素です。酵素を使うと核酸のある特異的な塩基(配列)のところが切断できるということができることが初めてわかったわけです。今にしてみれば当たり前のような研究に見えるのですが、後のtRNAの構造研究などに必須の道具となりました。もっと言えば、制限酵素とか、更にはゲノム編集(特定の配列で核酸を切断するCRISPR/Cas9)の先駆けとなるものです。

 

ただ本当に興味があったのは、「核酸、硝酸、硫酸」らしい。核酸と硝酸が同じ文脈で使えるわけがないですが、核酸研究の最大の成果がリボヌクレアーゼT1、その他にも核酸分解酵素の研究で知られています。

 

硝酸研究の最大の成果が、チトクロームP450の発見(佐藤了先生)につながります。チトクロームP450が日本で発見されたということをご存知ない薬学系の学生さんもおられるかもしれません。

 

そして、最後の一つが硫酸、これはコンドロイチン硫酸のことです。コンドロイチンとか、怪しい薬のように思っている人もいるかもしれませんが、軟骨を含めた結合組織ではとても大切な多糖です。この多糖を配列特異的に切る酵素コンドロイチナーゼの研究で有名になったのが、私の大学院の時の恩師(鈴木旺先生)でした。鈴木旺先生は、江上先生の弟子で、江上先生が1958年に東大に移籍した後の後任として、名大の教授になったのでした。この研究室では後に核酸の生合成の研究をする岡崎礼治博士を助教授としてリクルートし、分子生物学では必ず習う「岡崎フラグメント」の研究が行われました。

 

http://www.pssj.jp/archives/files/ps_history/PS_History_02.pdfhttp://www.pssj.jp/archives/files/ps_history/PS_History_02.pdf

 

 https://www.brh.co.jp/seimeishi/journal/032/pdf/s32_302.pdf

https://www.brh.co.jp/seimeishi/journal/032/pdf/s32_302.pdf

 

また後進の育成でも大きな成果を上げています。名古屋大学では名伯楽と言われた平田義正博士をリクルートし、数多くの著名な有機化学者を輩出したり、特に有名なところでは野依良治下村脩さんという2人のノーベル化学賞受賞者がでています。また、東大では理学部に「生物化学」の学科を設立、更に今は無き民間の基礎科学の研究所であった三菱生命研を作りました。晩年には生命の起源の問題にも関心を示していました。

 

平田義正 - Wikipedia

http://www.jbsoc.or.jp/seika/wp-content/uploads/2013/11/80-11-01.pdf

http://www.jbsoc.or.jp/seika/wp-content/uploads/2013/11/80-11-01.pdf

 

科学者の卵たちに贈る言葉――江上不二夫が伝えたかったこと (岩波科学ライブラリー) 単行本(ソフトカバー) – 2013/7/6 笠井 献一 (著)

 

私は大学院生のころ、こうした環境の影響を受けたわけです。そのスタイルは、自由さ、思いつきとか、セレンディピティとか、そういうものが根幹にあったように思います。

 

(2)沼正作先生


京都大学医学部医化学の教授だった沼正作先生。京都大学の教授になったわけですが、その前の脂肪酸代謝の研究も有名ですが、特に神経伝達物質レセプターやナトリウムチャネルなどの神経科学関係の分子生物学研究(cDNAクローニングが中心)でノーベル賞候補とも言われた先生です。1980年代には数多くのNature論文を発表していました。その全盛期には数ヶ月に一回のペースでNatureに論文を出していたということでも、その研究活動の活発さが想像できると思います。


1980年代のNature論文。


もちろんそのようなラボでしたから、日本人の多数の教授(中西重忠先生など)を誕生させています。そして、沼研の多くのエピソードが伝説のようにその死後20年近く経過した今でもあちこちで語られるということでも有名です。その様子はネット上にもいくつかまとめられていますので読んだことのある人も多いでしょう。

 

「沼ですが(しばし沈黙)。正月は休むと言っていましたが,もう2日です。いつから研究室に来るのですか?」(沼正作)


努力は無限。 (沼正作)

 

scienceandtechnology.jp

 

沼教授時代 [昭和43(1968)年2月1日~平成 4(1992)年2月15日]
http://www3.mfour.med.kyoto-u.ac.jp/~htsukita/new-pub/Numa%20jidai.html

 

伝説の生化学者 沼正作物語 第1回  

こうして誕生したデンセツの京大医化学第二講座(月刊「化学」に掲載された連載記事)

 

沼先生が留学されて、そのラボ運営に大きな影響を与えたというFeodor Lynen博士(1964年ノーベル生理学・医学賞)。

 

私も生前の沼先生の講演など聞いたこともありました。当時は分子生物学会というのがまだ小さな学会で、こういう研究の主要な学会は生化学会でした。学会に行くと沼研のポスターが貼ってあったわけですが、見ている人がほとんどいませんでした。秘密主義で論文にした研究のみしか学会発表しないということのようでした。それでも、沼先生は、やはり早石修先生の系譜なので、生化学会の活動そのものには積極的に関与されていたように思います。

 

大学院生の時、京大の本庶研(ノーベル賞の本庶佑先生のラボ)を訪れたことがありました。このころの京大医学部医化学の本庶研、沼研というのは、日本の分子生物学のメッカみたいな場所でしたので、やはりそこを実際に案内していただいたのは記憶に残っています。その後、京大の竹市研で過ごした時期もありましたので、京大医化学のセミナーなどにも行ったことがありました。そこで紳士風の沼先生を何度も見かける機会もありました。

 

以前も書きましたが、私が1994年に日本に一時的に帰国した時には、この沼研で「助教授」をやっていた野田先生のラボの助手(今の助教)となったわけです。4年間過ごしました。その時に、沼研のやり方やエピソードなどを沢山聞いたわけです。したがって、沼研を再現せよと言われれば、今の時代に再現できるかもしれません。

 

沼研のエピソードは今でも面白おかしく伝えられているわけですが、実はそんな単純なことではないです。
例えば、有名なエピソード。

「正月は休むと言っていましたが,もう2日です。いつから研究室に来るのですか?」

 日本では正月は三が日といって、3日まで休みというのが世間常識なのかもしれません。でも、世界では常識ではありません。米国では1日は休みですが、2日には普通に働き始めます。世界の競合ラボがもう働いているのに、なぜ2日も休んでいるのかという感覚はよくわかります。沼先生には国際的な意識があったということなのかもしれません。

 

科学に没頭すれば、それこそ寝食を忘れてしまうものです。余分なことを考えたくない。自分の欲望に厳しくなり、家庭もどうでもよいとなる(沼さんはドイツ人女性と結婚したが離婚していた)。これが研究者なのかもしれません。それが研究者のエゴなのか、あるいは研究者でない人には理解できないハイな状態なのか、いろいろな解釈ができるでしょう。つまり、沼研のエピソードをどのように解釈するのか、というのは、解釈する人の問題なのだと思います。

 

土日祝日なしで一日16時間ラボで過ごすなんていうのも、研究が楽しければ自然とそうなってしまいます。また私もそうですが、高齢になると、残り少ない人生を感じ始めて、研究に没頭するという意欲が異様に高まってきます。この感覚は若い人にはなかなかわからないものなのかもしれません。特に、無限に時間があると感じるような院生などにはなかなかわからないものだと思います。

 

ただ、沼先生は工場のような研究スタイルになることを肯定していたようです。そのスタイルは、厳しさ、品質管理の緻密さ、工場、勤勉第一、猜疑心ということでしょう。

 

江上不二夫先生は、ラボの運営に関して、RNAの配列を決めるということを例に出して、例えばこのフラグメントの配列はあなたが決めなさい、こちらのフラグメントの配列は彼に決めさせなさいという、こういう指導は絶対にできないのだと言っていました。一方、沼研では、そういうことを積極的に行う、時には工場の納期と同じだと怒鳴ったりして無理にやらせるということをやっていたのではないでしょうか。

 

殿村、大沢、江橋の三研究室は、殿村工場、大沢牧場、江橋精肉店とニックネームがつけられている。(丸山工作)

 

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