わがまま科学者日記

純粋に科学のお話をしたい。。

私の留学記(15)ノスタルジア

日本に帰国して、ラボにお金がないということだったので、民間財団の研究費に応募した。応募すると、ほとんど通過して連戦連勝という状態だった。落とされて、がっかりしたという経験がないような状態である。

1995年 病態代謝研究会(山ノ内財団)・研究奨励金(50万円)代表者 
1996年 住友財団・基礎科学研究助成金(260万円)代表者
1996年 上原記念生命科学財団・研究奨励金(200万円)代表者
1996年 チバ・ガイギー科学振興財団・研究奨励金(130万円 )代表者 

学会では、座長も務めた。おそらく、学会の偉い人がラボや私のことを把握していて育成に協力していたのだと思う。

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第10回 基礎生物学研究所バイオサイエンストレーニングコース山形方人 1995年12月11日   
このバイオトレーニングコースでは、当時はまだ珍しかったウイルスベクターやバイオリスティクスというようなものを紹介した。私自身が中心になって行った。この参加者からは、その後、有名な研究者になった人も多い。私自身は、こういう教育や企画みたいなものがとても好きなのである。

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第12回 慶應大学ニューロサイエンス研究会 山形方人 1995年12月9日   
慶応大学医学部のニューロサイエンス研究会というのは、日本で活躍している研究者を招聘しているセミナーなのです。当時、慶応大学医学部解剖学教室の川村光毅先生が招待してくださったものでした。川村光毅先生にはよくしてくださったので、現在でも感謝しています。当時、ご存命だった田中英明先生(熊本大学)は、このようなものに招待されたら、すべて行くことが大切だと言っておられた。全くそのとおりであるとと思った。こうやって、コミュニティの中で少しずつ評価されて、コミュニティのなかに取り込まれていくのが、若手研究者というものだった。

 

ノスタルジア
当時は、基礎分野の科学研究をやるというと、科研費が中心だった時代である。講座費も結構大きかった。基生研の所属ラボの場合、年間800万円くらいが、講座費として配分されていたと聞いている。そのころ、神経科学の分野で有名な伊藤正男先生が、「戦略的」なる言葉を使うようになって、そういうものが世の中にでてきた時代だった。この伊藤先生の考えを反映したのが、当時はまだ科学技術庁(現、文科省)の科学技術振興事業団が開始していた戦略的基礎研究というものだった。CRESTと呼ばれるものである。当時は、こういう大きな競争的な研究費はあまり数多くなかったし基礎科学にも対応していた。政治家の加藤紘一、尾身幸次氏などが中心になって科学技術基本法(1995年施行)を作って、日本が科学技術分野に大きな投資を始めた時代である。CRESTの財源は、建設国債を利用できるようにしたということも画期的であった。理研の最初の分野別のセンターである脳科学総合センター(BSI)というのが計画されたのもそのころだった。おそらく、日本の科学研究にとって、これくらいの感じが一番幸福な時代ではなかったか、と思う。当然、国立大学の独立法人化以前の話である。

 
でも、私の場合、助手が応募する奨励研究(A)というのを応募すると満額通過したのだが、神経科学系の重点領域というのは出しても通過しなかった。この重点領域というのは、当時から既得権益の強い研究費領域であったようだ。その中心にいた医学系の神経発達の先生などは、理学系の神経発生の先生を「あちらの分野の人だと思っていたのに、こちらにいる」などと評したようだった。こういう既得権益の強い分野で生きていくのは大変だと思った。そして、自分たちの既得権益を守ることには懸命だが、プロアクティブな態度を取れないリーダーとしての資質の低い研究者をリーダーに添える日本の学会のあり方にも幻滅したものである。
(続く)