わがまま科学者日記

純粋に科学のお話をしたい。。

私の留学記(10)サクセスストーリー

禍福はあざなえる縄の如し
===================================================
さて、一応、目標であった自分なりの実験系が確立できたので、それを続けるために、日本でポストを探そうということになった。留学して2年ほどしてからである。
 
私が短期間であるが竹市研に学振特別研究員として滞在したあと、愛知医科大学の常勤の助手になって、それから渡米したことは既に書いた。繰り返すが、そのころは、知名度の高いラボ関係者であれば、公募などに応募しなくても、常勤の任期なしの助手というポストは簡単に見つかった(現在、こういう世代が、大学の指導層になっている)。当時は、公募に出ているような若手向けポストというのは、「傷もの」であるという認識があった。愛知医科大学というと、世間では金持ちのご子息が行く底辺の医大というイメージがあるが、給料などの待遇もよかった。日本の場合、有力私大の教員の給与などは、国公立大学の同様な職より高い傾向がある。
 
留学前、京都にいたころであるが、別の常勤職の話をいただいたことがある。当時、三菱化成生命科学研究所と呼ばれていた研究所の藤田忍先生からお誘いがあった。三菱生命研は、その後、三菱化学生命科学研究所と名称を変えたが、残念なことに、現在は無くなってしまった基礎科学の研究所である。当時は、外部資金など取らなくても基礎科学ができる企業の研究所として、人気の高い研究所だった。民間の研究所ということで、待遇も民間の一流企業のレベルであるということだった。三菱生命研は、名古屋大学で私がいた講座の先代教授である江上不二夫先生という日本の生化学の大御所が設立したということもあり、親しみもあった。そして、研究所にまで見学に行ったが、結局、米国行きを優先するためにお断りした。
 
Wash Uに行って、日本でポストを探そうということになった時に、最初に話があったのは、お茶の水女子大学理学部の助教授であった林正男先生のラボであった。名大出身の林正男先生は、私が細胞接着分子フィブロネクチンの研究をしていたことや、林先生がNIHのKenneth M Yamada研に留学していて、私も同研究室と共同研究をしていたこともあり(合計3報がある)、研究会などで一緒になったりして旧知であった。林先生は、世の中ではバイオ政治学者「白楽ロックビル」というペンネームの方が有名かもしれない。わざわざ、セントルイスまで来ていただいてお誘いいただいた。私が日本に一時帰国した際には、お茶大のラボに見学に行った。その一時帰国では、名大の藤澤肇先生のラボにお邪魔して、研究内容についての議論をしていただいた。
 
ただ、その時の一時帰国の最大の目的は、ドイツのBonhoefferラボから帰国し研究室を立ち上げたばかりの岡崎の基生研の野田昌晴先生のところに行くことだった。これは、Sanesラボにポスドクとして来たばかりで、基生研の客員ラボであった堀田凱樹研の岡本仁さん(現、理研BSI)のところにいた井上明宏さんが、Sanes研に来ており、彼を通じて打診があったからだ。この時は、京都府立医大から東北大に移籍したばかりの仲村春和先生のラボという可能性も検討していていたということもあった。つまり、帰国先として、いくつかの選択肢があったということだ(敢えて、書いておくことにする。この時、どれを選んだのがよかったのかは、読者の想像にまかせたい)。
 
しかし、私自身、静岡県西部地方生まれで愛知県に長かったので、愛知県の岡崎を選ぶというのは自然なことで、基生研を選んだのだった。そして、直前に見学したお茶大と基生研の研究施設を比べると、やはりお茶大がひどくみすぼらしく見えるのは仕方がない。また、伝説の沼正作研究室でNatureの筆頭著者論文を10報発表した基生研の野田先生は国際的な知名度は高かった。Sanes博士に説明するのに、学術的な知名度のない林先生のところに行くとは言えなかった。また、基生研には、竹市先生の客員ラボ(能瀬さん)もあり、環境的にも悪くは思えなかった。ただ、実のところ、私自身は、基生研に行くより、お茶大の方が良いのではないか、という気持ちもかなりあった。だからお茶大にも見学に行ったのである。しかし、お茶大に行くことについて大学院での恩師であった木全先生が強く反対したので、この意見が私を後押しした(この意見に従ったのは後悔している)。というわけで、岡崎の基生研の助手として帰国した。米国でそれなりの研究をして、自らの目標を達成し、日本の一流研究所の常勤の「助手」として帰国したのであった。当時としては、間違いなく、それなりの「サクセスストーリー」である。
 
ポスドクが一流研究機関でポストを得る成功物語となった3-4年の時間経過を10回分のブログで記してみた。しかし、ここから、「現在の私」が作られるのに、時間的にはその4倍の20年分があるのである(よって、残り40回分の内容があるということになる)。
 
この続きは、しばらく時をおいてから記そうと思う。 皆様、よいお年を。。

                                                                                  f:id:dufay:20171229030120p:plain