わがまま科学者日記

純粋に科学のお話をしたい。。

私の留学記(2)竹市先生

なぜセントルイスのワシントン大学で研究をすることになったのか。そのことを書いてみたい。

名古屋大学理学部化学科の生物化学教室では、複合糖質の研究をしていた。この物質の研究に関わることになったきっかけについては、別の機会に譲ることにするが、私はそのころから世の中で流行しているようなものが嫌いだった。人のやらないことをやる。大学院生のころから、そういう意識が背景にあったということは確かである。例えば、こういう論文を書いたこともある。当時、J Biol Chemは、日本国内からはほとんど出ていなかった難関雑誌だった。この論文を投稿した時、全くのRevisionなしでアクセプトされた。当時、このような研究ができたのは、世界でもなかったので、その独自性に査読者もコメントの出しようがなかったのだろうと思う。例えば、この論文がそんなものだ。

www.ncbi.nlm.nih.gov


博士論文の審査会(1988年)では、当時、化学科の学科長をされていた野依良治先生(後にノーベル化学賞受賞)にも聴いていただき、「これから頑張りなさい」という言葉をいただいた。当時、その研究では、生化学の研究室にも関わらず、「発生生物学」が流行していた。複合糖質が細胞外マトリックスの成分として、その周辺の話題に興味があったからだ。助教授の中西康夫先生(後に大阪大学教授)は、生化学の世界から脱線し、完全に発生学の世界に移行していた。ちなみに、中西康夫先生は、サッカー解説者の中西哲生氏のお父さんである。

 

そんなこともあって、博士取得後は、もっと生物学的な方向に行くことに関心があった。私は、細胞外マトリックスの研究として、細胞接着分子フィブロネクチンの研究をしていたので、細胞接着の現象には大変な興味があった。そういうラボで、ポスドクをやろうと考えたが、当時、京都大学理学部の竹市雅俊先生が、助教授から教授になり、とても興味深い研究をしていた。そこで、日本学術振興会の特別研究員というのを考えてみた。当時は、ポスドクという概念は日本にはあまりなかったように思う。学振の特別研究員も、博士所得後に、博士取得したラボで、そのまま研究を続けるために利用されることがほとんであった。つまり、博士取得後にラボを移るということは、とても珍しい時代だった。

 
竹市先生のラボは、日本の発生生物学の大御所であった岡田節人先生の後継ラボということで、人材や人脈も日本では恵まれた場所であるのは説明する必要はないだろう。いろいろ実験をやった。特に、レトロウィルスベクターを使ってカドヘリンを異所的に発現させてやろうというプロジェクトを行った。今でこそ、こういうアプローチは陳腐だが、当時はそうではなかった。しかし、うまくいかなかった。特にマウスの胚でカドヘリンを異所的に発現させようと試みるのだが、マウスの扱いは難しい。そんな折、ニワトリの細胞、胚に、lacZを発現させることができるレトロウィルスベクターを開発したという論文をPNASで見かけた。このベクターが欲しい。竹市先生と相談して、このベクターを入手した。そう、この入手先が、ワシントン大学のSanesラボだったのでした。
 
私も細胞接着現象には興味があったが、やはりもっと特定の生命現象に焦点をあてていくべきであると感じるようになっていた。竹市先生は、「シナプス形成」が面白くなるという。竹市先生は、自分でもやってみようと考えているが、今はとても難しいということであった。そうこうしているうち、ジャーナルクラブで、神経筋シナプス形成に関わるラミニンという接着分子の一連の論文を紹介することになった。当時、シナプス形成は中枢ではほとんど研究がなく、神経筋シナプスの研究が少しあったような状態だった。ここで紹介した論文が、ワシントン大学のSanes研のものだった。最初は、先に紹介したレトロウィルスベクターの話とこれがどう結びつくのか、よくわからなかった。しかし、このような状況下でSanesという研究者の研究の一端に触れることができたのだ。
 

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ただ、京都での学振の特別研究員は採用期間が短い。当時はポスドクという概念が確立してなかったので、こういう状態で生きていくのは難しい時代だった。竹市先生が簡単なポストなら用意できるという。それより、簡単に常勤の助手があった時代だったのだ。名古屋大学の時の先生が、愛知医科大学に企業の寄付金で分子医科学研究所という鳴り物入りの研究所を作り、そこの助手になって、名大の院生の時にやり残した研究を片付けた。そして、竹市先生と愛知医大の木全弘治先生の推薦をいただいいて、Sanesにポスドクの可能性を打診したところ、Sanesが竹市先生、木全先生の研究をよく知っていたということもあって、是非にということになったのだった。
 
当時、Sanesは、神経系の細胞外マトリックスの研究者として確立した存在だったのだ。